音楽のちから DOPING PANDA

生活のすべてを破壊しつくす、そんな音楽がこの世界には存在するから

生きるのもそりゃあ大変ってもんだ。

 

先日、ACIDMANの結成25周年を記念したフェス、「SAI」に行ってきた。

もうこの時点で先に言っとく。

今回はあるバンドに大変にお熱ですという話です。

 

というのもね、この「SAI」、出演者が大変にそれはもう豪華だったのです。

見てごらんなさいな、日本の音楽シーンの先頭を突っ走ってきたバンドのオンパレード。

あまり音楽に詳しくない私でも知っている、大御所ばかりだ。

このフェスに私が参加するに至るまでの話、特に、直接呼び水となった、「NEW ACOUSTIC CAMP2022」参加のところから本当は話したいのですが、もうそんなことは言ってはいられない。

とにかく、今すぐに、早く、伝えなくてはならん。なんともどかしい。

 

フェス、それは未知との遭遇

そもそも知らなかったアーティストもいたので、当日までにある程度の予習をしようと、参戦予定である初日の出演アーティストの楽曲を順番に聞こうとした。

まず1組目。東京スカパラダイスオーケストラ

これはもういわずもがな、大ベテランである。

名曲揃いだし、ドラムは欽ちゃんだし(私はフィッシュマンズのファンである)、

祭りのトップバッターにふさわしい、超絶かっこいいバンドである。

なので、予習の必要なし。はいOK。はい次の出演者!

ん?「DOPING PANDA」?ぜんぜん知らないや。ドーピングパンダ?

パンダがドーピング?よくわかんないけど中国?などと思ったのですが

まぁ別に深く考えることもなく、AppleMusicのトップソングの「Transient Happiness」を再生した。

 

そして、最初の音、ギター、カッティング?というんですか?

よく知りませんけど、聞いて、痺れた。

なんだこれ、なんだよこれは?

一瞬でミュージックにインだ。

と同時に直観。

これは、やばい。

この音楽の渦に巻き込まれて、ほかには何も考えられない感覚。

次に来る音という音に、体が自然と構える、耳が欲しがる。

ただ、流れてくる音に身を任せて、というか任せてしまうともうとんでもなく身体と頭を揺らして踊りたくなる衝動を抑えきれない。

 

DOPING PANDAことドーパン。天才フルカワユタカの天才的仕事。

血がたぎるダンスミュージック。

とにかく踊りたい、快哉を叫びたい、体のまん真ん中がゴゴゴっとたぎって、とにかく熱くて、今この瞬間、この音楽に溺れる!

 

気づけば泣いていた。

なんの涙かは全然わからないけど、ただ聴いて楽しくて、うれしくて、この音楽に出会えた喜びがあふれちゃったんだと思う。

 

ここからはもう早い。

私はドーパンというドーパンをディグりはじめ、

「SAI」当日まで、他のアーティストを聴くこともなく、ドーパンを聴き漁った。フェス2組目のアーティストで、私のSAI予習は終わった。

お陰でSiMはお初にお目にかかります状態であった。

 

「Crazy」という楽曲に震えた。

「I am sorry,me.ミラクル起こせなくてさ」という歌い出しから始まるこの曲は、歌詞とは裏腹に明るくて華やかで、疾走感があって、それでいてギミックと驚きにあふれていて、でもなぜか、すこしだけさみしくて。

「ねぇギュッとしよう」の部分で、心臓がほんとうにぎゅっとなって。

「gonna be crazy」と言い続けるフルカワユタカことロックスターにほんの少し、本当にちょっぴり自分が重なってる気がして。

途方に暮れた。こんなの聴いてしまって、これからどうしたらいいの。

素晴らしい音楽を聴いたときは、なぜかこれからどうしたらいいんだろうといつも思う

。どのように生きればいいのかわからなくなる。今まで普通に生きてきたのに、どうやっていたのかわからなくなる。この音楽なしに、どうやって今まで生きてこれていたのか、ねえ、だれか教えてよ。

 

そうだ。知りたかったんだよずっと。

ハイデガー研究の重鎮、哲学者のH・G ガダマーも言っていた。

「最初の人間が歌をうたったか、言葉を発したか、それをこそ知りたいのだ」と。

私はこの言葉に深いところで共感している。

無くてもよかったこの世界がなぜだかこのような形式で有って、そこになぜだか「私」は存在して、音楽という魔法に一瞬にしてかかっている。

この事態の問答無用さ。

ハイデガーで言うところの「被投性」。

始原までさかのぼったとき、存在は一体何をしたくて、しようとして、こんな世界になったのだろうか。それが知りたい。

言葉はいつも事態を裏切っている。言葉だけでは掴めない世界が確実にある。

では音楽はどうか。音楽は真理を表すか。

たとえらヘッドフォンで音楽を聴いているとき、音楽はいったいどこで鳴っているのか。私の頭の中なのか、世界なのか。

音楽の持つちから、言葉の持つちから、そこにはきっと創世の理が隠れている気がして、途方に暮れるには十分すぎる。

 

話が逸れてしまった。

そして迎えたSAI当日。

私はもうもはや、主役のACIDMANよりも実はドーパンが楽しみだった。

そして私はドーパンの出番中、放心状態であった。

3階席だったのだが、アリーナ席へ飛び込んで、踊り狂いたかった、

でもそれはできないので、ただ鳴らされる音に体を預け、その場で茫然としていた。

もう、何も言えない。

 

楽曲の予習が忙しかったので、バンドの成り立ちや動きについてはSAIのあとに調べて知ったのだが、実は、このバンドは2012年に惜しまれつつも解散しており、10年後の今年、再結成をしたそうなのだった。2022年に目の前で生きてるメンバーが演奏すること、それ自体が奇跡なのであった。

私は、この機会の貴重さを知ることもなく、今まで長く活動している現役のバンドだと思いなして、このSAIに臨んでいたのである。生粋のファンからするとまことおめでたい野郎である。

 

ただし、楽曲への畏怖と敬意だけを胸に、何も事情を知らぬまま、ロックスターの音楽を浴びることができたのは、逆説的にはこれ以上ない僥倖であった。

 

というのも、私は作品の評価に、作品以外の情報、たとえば作家の半生などを持ち出して語ることを好まない。作り手が込めた思いは作品にすべて注がれているのだから、それを部外者がピーチクパーチク、都合のいい文脈から切り出しているものは邪推の域を出ないだろう。

だから情報は邪魔なのである。

音楽を純粋に感じるために必要なのは体と心だけなのであって、情報なんかでは一切ない。

 

なーんて言っちゃいましたけど、愛しちゃったら、すべてを、知り尽くしたくなるのが人間の性ってやつですよね~~~~~~

というわけで今私は、仕事以外のすべての時間をドーパンに費やしている。

寒くなる前に編むね、とふるさとの母と約束し、毎日少しずつ編み進めていた毛糸の靴下も途中で放り出し、通勤中の読書も、家事ももちろん、超ロングスリーパーである私が睡眠時間さえも投げうって、すべてをドーパンにぶっこんでいる。

食事もめんどくさいので、片手で食べられるものを食べている。

お箸を使わないといけないと、集中して読んだり聴いたりができないので。

というかもはや、食べる時間が惜しいので、空腹が我慢できなくなるまで食事も容赦なく抜く。生活は崩壊である。健全に生存することすらすこし危ぶまれる。

 

日本中でサッカーが話題ですけれど、周囲の人間たちが深夜の試合を見るために必死に生活をやりくりしている中、当然見るでしょう?という圧力に対し、私は寝る時間を優先するので…などとのたまっていたが、実は日本が運命の一戦を交えているあいだも

ロックスターのコラムを読み、ラジオを聴き、Youtubeを観ていた。毎日体力の限界まで、インプットに勤しんでいる。

ほんとうはこんなブログも書いている暇はない。今すぐ読みたい聴きたいものがまだまだあるので。

でも書いておこうと思ったのは、この愛する音楽との出会いを残しておかねばどうにかなってしまう!というのっぴきならない初期衝動からである。

ドーパンを聴けば絶対不可避のダンシング欲求、でもそれ以上に聞きたい欲求の方が強く、決して踊ってなんていけないであろう通勤の電車内でも、頑張って我慢しながら聴いている。勝手に踊り出す身体を鉄の意思でもってコントロールするのはもはや修行である。

 

こんな調子なので、ファンクラブ、ファンコミュニティにもちゃっかり入会した。

これから、ライブにばんばん行こうと思っている。

最近、テレビで言っていました。若い子のクリスマスプレゼントに希望するもの第1位は、「推しのグッズ」だと。

推しのグッズてwと草を生やしていた。

そして私は、長らく「推し」という概念がよくわからなかった。

だって、他人じゃん。しかも、全然遠くの他人じゃん。

どんなに好きでも、実際の存在と自分と距離がありすぎて、どうやったらそんなにはまれるのだろう。そんなに遠い存在を、相手のことをよく知らぬままに深く愛することなどできない。そう思っていた。

 

でも、今たしかに私は、フリマアプリでとにかくドーパンの昔の雑誌、CD、DVDと、当時の情報収集にやっきになっている。今一番欲しいのは、推しのグッズです。

 

にしても、DOPING PANDAと同世代のバンドであるACIDMANELLEGARDENアジカンストレイテナー、と、高校時代大好きでどっぷり聴いてきたはずなのに、なぜドーパンを通らなかったのか。

私の故郷はドーパンが届くには辺鄙すぎたのか。

いや、私のアンテナがしょぼかったのだろう。

あのとき出会っていたら、今どうなっていたのだろうか。

解散に涙し、再結成にまた泣いたのだろうか。

それはもうわからない。

ただ、32歳、毎日ドーパン暮らし、たのしいです。