初秋の枝垂れ柳に思う
秋が来ました。
近所に大きな枝垂れ柳があります。
私はこの枝垂れ柳がとても好きだ。
そばを通るたび、何度も見上げてその美しさにため息が出てしまう。
夜なんかはちょっとおどろおどろしい。
だけど、神秘的で怖くても目が離せない。
そんなちょっと不気味な姿の枝垂れ柳も、毎年冬が近づくと、いつの間にか幹に藁みたいなものが巻かれている。
寒さに弱いのかな?
誰かがこの枝垂れ柳を愛で、守ろうとしているのだな。そう思うとまた愛おしいもので、私の中では「シダレ」と愛称している。
おっ、シダレ、早速冬支度かい。
そんな風に心の中で話しかけてみたりもする。
夏の暑い日には、シダレの下でお茶を飲んだり休ませてももらった。心地よい木陰を提供してくれる。
私のシダレ、ちょっぴり不気味でかわいいシダレ。
なんでそんなに枝を垂らすんだい。
他の木みたいに上を向いて生きていかないのはどんな生存戦略なんだい。
いつも静かに話しかけている。
そして、シダレをながめぼーっとしては、つまらぬことを考えている。
私の育った片田舎には、巨大なたいまつを燃やして一年の息災を願う、というお祭りがある。
その時に開陳される絵やら何やらがあって、その中の一つに地獄の絵というものがあった。
それは絵巻物風になっていて、巨大な巻物に地獄の詳細が記されていたのだった。
大きなペンチのようなものを持った鬼が人間の舌を引き抜こうとしていたり、ぐつぐつにたぎった釜の中に人間を入れようとしている鬼がいたり、槍のようなものを持った鬼が人間をいたぶっていたり。
そんな絵が緻密にぎっしりと描かれていた。
「悪いことしたら、地獄に行ってこんな目に遭うんだからね。いい子にしなきゃね。」
そう言って聞かせる親もおり、その絵を見せられた子供の中には、あまりの怖さに泣き出してしまうものもいた。
たしかに、大迫力である。
地獄って、こんな所なんだ……
外では大きな松明がパチパチと音を立てて爆ぜ、人々の掛け声と共に燃えている。
暗がりの中で炎によって照らされる、人の顔の言い得ぬ不穏な表情。
熱気とざわめきが合わさって、そこは図らずも地獄の入り口のように感じられた。
地獄の詳細イメージが植え付けられ、地獄の原体験となった出来事である。
でもその時、幼い私は直感した。
地獄に行くから、悪いことしちゃいけないんだろうか。悪いことをする事は悪いから悪いのではないか。じゃなければ、地獄に行かなければ悪いことをしてもいいのか。そんな教えで人の行動を条件づけるなんて、何か、絶対に違うだろう。
今思えば、可愛げのない子供である。
素直に物を捉える性質を持った人を、私は今も羨ましく思う。
地獄に行きたくないから悪い事をしません。
それでよい。
けれど、善と悪が、なにか相対的な意味であるはずはないだろう、と地獄を引き合いに出す大人を頑なにみとめたくない強情さがあった。
「じゃあ悪いことをするとなぜ地獄に行くの?」
そう問うてみたくなった。
さすがにこういう風に当時言語化できたわけではないが、子供心にこの親は詭弁を言っている、と感じたことは事実である。
屁理屈を言うな!と叱り飛ばされてもしょうがないとも思うのだけど、私にとって善悪の問題はいくつになっても心惹かれるものである事は間違いない。
ひとつ、考えてもみてください。
善と悪、なぜ人はこれを判断できるのか。
どうして人を殺す事は悪で、生かす事は善なのか。
なるほど、時代によっては人殺しが正義だったこともありますね。
人殺し=良いことだ。戦争な時なんて、敵を倒してなんぼ!そう信じられていた事もあるでしょう。
だけど、人殺しが「善」だと言うときのその「善」の意味、これは全く変わっていない。良いことの意味ですね。
善の指す行為の対象が変われども、善それ自体は変わっていない。悪も同じ。
たとえば何か悪いことをしたとき。
うーんそうですね、嘘をついてズル休みをした時を思い返してみます。
何とも言えぬ不快感、罪悪感。
なんだか良くないことをしてしまったな、というもんやりとした気持ち。
嘘をつく事は良いことです!と幼少期から刷り込まれていたとしても、欺くというその行為に悪の成分が含まれていることに、何故だか私たちは敏感です。でなければ、欺く、嘘をつく、という「裏」の行動を「敢えて」取るということはないからです。正々堂々やるでしょう、本当に良い事なのであれば。
嘘をつくことが、何か本当のことを隠すことである限り、後ろめたい気持ちを呼び起こす。
やっぱりどこかでそれが居心地悪く、なんとなく良くない事を直感している。
こう考えると、なぜか、善悪を教えられるまでもなく私たちはあらかじめ知っているようだ、と感じるわけです。
ということは、善悪は、外ではなくて、教えられる物でもなくて、あくまで内側、私たちの中にある…のでは!?
じゃあ、いつから私の中に善悪はあるのだろうか。
気づいたときにはもうあった。
じゃあ生まれる前か?てことは創世より前ですか?
と、なるわけです。
これは考え始めると本当に不思議なことです。
善悪と人間、どちらが先に在ったのだろう。
行為が先か、存在が先か。はたまた言語が先んじたのか?
この超絶不可思議を、旧約聖書ではヘビに唆されたアダムとイヴが、神に背いて禁断の果実を食べて原罪を負ったという風に表現しているけれど、このニワトリとタマゴのような、メビウスの輪のような、よくわからない構造を苦し紛れながらも見事に物語に落とし込んだ形なのかなと今は解釈しています。
考えても詮ないことを…と思う人もたくさんいるでしょうね。全くもってその通りだ。
これは一種の残念な癖なのでしょう。
哲学者の木田元も言っていた。
哲学というものは、考えなくてもいい事をどうしようもなく考えてしまう、ある意味不幸な人たちだと。
昔からこういう天邪鬼のような気質があったようで、家族からは「山川人」と揶揄されていた。
みんなが山に行こう、というと川に行きたい、と言い、川に行こうと言うと、山に行きたいと主張する、めんどくさいやつの意です。
別に逆張りしたい訳じゃないんだけど、なんだか引っかかるセンサーが周りと噛み合わない。
そんな風に感じる時代もあったり無かったりしたけども、自分と同じようなことに興味のある人たち=哲学科に進学したところ、類は友を呼ぶで大変面白かったので、やはりそういうもんだなと今は思います。
善悪は自分の中にあると思えば、なんだか勇気が湧いてきます。
巷には色んな言説が溢れてますし、色んな主義主張も盛んですけれど、一度この不思議さに思いを馳せてみると、色んな人の正義が何を指しているのか、ちょっとは考えられるような気がする。
タイムマシンが出来たら会いに行って、聞いてみたいことが山ほどあるんだよな。
過去がどこにあるのかわからんけど。
あれ、過去と未来ってどこにあるんだ?
時間って過ぎるっていうけど、何に対して過ぎ去ってんの?
なんて、藁をまとって風に揺れるシダレを見ていると、なぜだかそんな事をとりとめもなく、ぷつりぷつりと考えてしまう。
どうやら、枝垂れ柳の放つあの衣擦れのような葉音、あれが物思いにふけってしまうトリガーになるようです。
みなさんもお気にの枝垂れ柳のふもとで、葉音に耳を澄ませて一息入れてみてはいかがでしょうか。
意外と心地よいですよ。