音楽のちから DOPING PANDA
生活のすべてを破壊しつくす、そんな音楽がこの世界には存在するから
生きるのもそりゃあ大変ってもんだ。
先日、ACIDMANの結成25周年を記念したフェス、「SAI」に行ってきた。
もうこの時点で先に言っとく。
今回はあるバンドに大変にお熱ですという話です。
というのもね、この「SAI」、出演者が大変にそれはもう豪華だったのです。
見てごらんなさいな、日本の音楽シーンの先頭を突っ走ってきたバンドのオンパレード。
あまり音楽に詳しくない私でも知っている、大御所ばかりだ。
このフェスに私が参加するに至るまでの話、特に、直接呼び水となった、「NEW ACOUSTIC CAMP2022」参加のところから本当は話したいのですが、もうそんなことは言ってはいられない。
とにかく、今すぐに、早く、伝えなくてはならん。なんともどかしい。
フェス、それは未知との遭遇。
そもそも知らなかったアーティストもいたので、当日までにある程度の予習をしようと、参戦予定である初日の出演アーティストの楽曲を順番に聞こうとした。
まず1組目。東京スカパラダイスオーケストラ!
これはもういわずもがな、大ベテランである。
名曲揃いだし、ドラムは欽ちゃんだし(私はフィッシュマンズのファンである)、
祭りのトップバッターにふさわしい、超絶かっこいいバンドである。
なので、予習の必要なし。はいOK。はい次の出演者!
ん?「DOPING PANDA」?ぜんぜん知らないや。ドーピングパンダ?
パンダがドーピング?よくわかんないけど中国?などと思ったのですが
まぁ別に深く考えることもなく、AppleMusicのトップソングの「Transient Happiness」を再生した。
そして、最初の音、ギター、カッティング?というんですか?
よく知りませんけど、聞いて、痺れた。
なんだこれ、なんだよこれは?
一瞬でミュージックにインだ。
と同時に直観。
これは、やばい。
この音楽の渦に巻き込まれて、ほかには何も考えられない感覚。
次に来る音という音に、体が自然と構える、耳が欲しがる。
ただ、流れてくる音に身を任せて、というか任せてしまうともうとんでもなく身体と頭を揺らして踊りたくなる衝動を抑えきれない。
DOPING PANDAことドーパン。天才フルカワユタカの天才的仕事。
血がたぎるダンスミュージック。
とにかく踊りたい、快哉を叫びたい、体のまん真ん中がゴゴゴっとたぎって、とにかく熱くて、今この瞬間、この音楽に溺れる!
気づけば泣いていた。
なんの涙かは全然わからないけど、ただ聴いて楽しくて、うれしくて、この音楽に出会えた喜びがあふれちゃったんだと思う。
ここからはもう早い。
私はドーパンというドーパンをディグりはじめ、
「SAI」当日まで、他のアーティストを聴くこともなく、ドーパンを聴き漁った。フェス2組目のアーティストで、私のSAI予習は終わった。
お陰でSiMはお初にお目にかかります状態であった。
「Crazy」という楽曲に震えた。
「I am sorry,me.ミラクル起こせなくてさ」という歌い出しから始まるこの曲は、歌詞とは裏腹に明るくて華やかで、疾走感があって、それでいてギミックと驚きにあふれていて、でもなぜか、すこしだけさみしくて。
「ねぇギュッとしよう」の部分で、心臓がほんとうにぎゅっとなって。
「gonna be crazy」と言い続けるフルカワユタカことロックスターにほんの少し、本当にちょっぴり自分が重なってる気がして。
途方に暮れた。こんなの聴いてしまって、これからどうしたらいいの。
素晴らしい音楽を聴いたときは、なぜかこれからどうしたらいいんだろうといつも思う
。どのように生きればいいのかわからなくなる。今まで普通に生きてきたのに、どうやっていたのかわからなくなる。この音楽なしに、どうやって今まで生きてこれていたのか、ねえ、だれか教えてよ。
そうだ。知りたかったんだよずっと。
ハイデガー研究の重鎮、哲学者のH・G ガダマーも言っていた。
「最初の人間が歌をうたったか、言葉を発したか、それをこそ知りたいのだ」と。
私はこの言葉に深いところで共感している。
無くてもよかったこの世界がなぜだかこのような形式で有って、そこになぜだか「私」は存在して、音楽という魔法に一瞬にしてかかっている。
この事態の問答無用さ。
ハイデガーで言うところの「被投性」。
始原までさかのぼったとき、存在は一体何をしたくて、しようとして、こんな世界になったのだろうか。それが知りたい。
言葉はいつも事態を裏切っている。言葉だけでは掴めない世界が確実にある。
では音楽はどうか。音楽は真理を表すか。
たとえらヘッドフォンで音楽を聴いているとき、音楽はいったいどこで鳴っているのか。私の頭の中なのか、世界なのか。
音楽の持つちから、言葉の持つちから、そこにはきっと創世の理が隠れている気がして、途方に暮れるには十分すぎる。
話が逸れてしまった。
そして迎えたSAI当日。
私はもうもはや、主役のACIDMANよりも実はドーパンが楽しみだった。
そして私はドーパンの出番中、放心状態であった。
3階席だったのだが、アリーナ席へ飛び込んで、踊り狂いたかった、
でもそれはできないので、ただ鳴らされる音に体を預け、その場で茫然としていた。
もう、何も言えない。
楽曲の予習が忙しかったので、バンドの成り立ちや動きについてはSAIのあとに調べて知ったのだが、実は、このバンドは2012年に惜しまれつつも解散しており、10年後の今年、再結成をしたそうなのだった。2022年に目の前で生きてるメンバーが演奏すること、それ自体が奇跡なのであった。
私は、この機会の貴重さを知ることもなく、今まで長く活動している現役のバンドだと思いなして、このSAIに臨んでいたのである。生粋のファンからするとまことおめでたい野郎である。
ただし、楽曲への畏怖と敬意だけを胸に、何も事情を知らぬまま、ロックスターの音楽を浴びることができたのは、逆説的にはこれ以上ない僥倖であった。
というのも、私は作品の評価に、作品以外の情報、たとえば作家の半生などを持ち出して語ることを好まない。作り手が込めた思いは作品にすべて注がれているのだから、それを部外者がピーチクパーチク、都合のいい文脈から切り出しているものは邪推の域を出ないだろう。
だから情報は邪魔なのである。
音楽を純粋に感じるために必要なのは体と心だけなのであって、情報なんかでは一切ない。
なーんて言っちゃいましたけど、愛しちゃったら、すべてを、知り尽くしたくなるのが人間の性ってやつですよね~~~~~~
というわけで今私は、仕事以外のすべての時間をドーパンに費やしている。
寒くなる前に編むね、とふるさとの母と約束し、毎日少しずつ編み進めていた毛糸の靴下も途中で放り出し、通勤中の読書も、家事ももちろん、超ロングスリーパーである私が睡眠時間さえも投げうって、すべてをドーパンにぶっこんでいる。
食事もめんどくさいので、片手で食べられるものを食べている。
お箸を使わないといけないと、集中して読んだり聴いたりができないので。
というかもはや、食べる時間が惜しいので、空腹が我慢できなくなるまで食事も容赦なく抜く。生活は崩壊である。健全に生存することすらすこし危ぶまれる。
日本中でサッカーが話題ですけれど、周囲の人間たちが深夜の試合を見るために必死に生活をやりくりしている中、当然見るでしょう?という圧力に対し、私は寝る時間を優先するので…などとのたまっていたが、実は日本が運命の一戦を交えているあいだも
ロックスターのコラムを読み、ラジオを聴き、Youtubeを観ていた。毎日体力の限界まで、インプットに勤しんでいる。
ほんとうはこんなブログも書いている暇はない。今すぐ読みたい聴きたいものがまだまだあるので。
でも書いておこうと思ったのは、この愛する音楽との出会いを残しておかねばどうにかなってしまう!というのっぴきならない初期衝動からである。
ドーパンを聴けば絶対不可避のダンシング欲求、でもそれ以上に聞きたい欲求の方が強く、決して踊ってなんていけないであろう通勤の電車内でも、頑張って我慢しながら聴いている。勝手に踊り出す身体を鉄の意思でもってコントロールするのはもはや修行である。
こんな調子なので、ファンクラブ、ファンコミュニティにもちゃっかり入会した。
これから、ライブにばんばん行こうと思っている。
最近、テレビで言っていました。若い子のクリスマスプレゼントに希望するもの第1位は、「推しのグッズ」だと。
推しのグッズてwと草を生やしていた。
そして私は、長らく「推し」という概念がよくわからなかった。
だって、他人じゃん。しかも、全然遠くの他人じゃん。
どんなに好きでも、実際の存在と自分と距離がありすぎて、どうやったらそんなにはまれるのだろう。そんなに遠い存在を、相手のことをよく知らぬままに深く愛することなどできない。そう思っていた。
でも、今たしかに私は、フリマアプリでとにかくドーパンの昔の雑誌、CD、DVDと、当時の情報収集にやっきになっている。今一番欲しいのは、推しのグッズです。
にしても、DOPING PANDAと同世代のバンドであるACIDMAN、ELLEGARDEN、アジカン、ストレイテナー、と、高校時代大好きでどっぷり聴いてきたはずなのに、なぜドーパンを通らなかったのか。
私の故郷はドーパンが届くには辺鄙すぎたのか。
いや、私のアンテナがしょぼかったのだろう。
あのとき出会っていたら、今どうなっていたのだろうか。
解散に涙し、再結成にまた泣いたのだろうか。
それはもうわからない。
ただ、32歳、毎日ドーパン暮らし、たのしいです。
初秋の枝垂れ柳に思う
秋が来ました。
近所に大きな枝垂れ柳があります。
私はこの枝垂れ柳がとても好きだ。
そばを通るたび、何度も見上げてその美しさにため息が出てしまう。
夜なんかはちょっとおどろおどろしい。
だけど、神秘的で怖くても目が離せない。
そんなちょっと不気味な姿の枝垂れ柳も、毎年冬が近づくと、いつの間にか幹に藁みたいなものが巻かれている。
寒さに弱いのかな?
誰かがこの枝垂れ柳を愛で、守ろうとしているのだな。そう思うとまた愛おしいもので、私の中では「シダレ」と愛称している。
おっ、シダレ、早速冬支度かい。
そんな風に心の中で話しかけてみたりもする。
夏の暑い日には、シダレの下でお茶を飲んだり休ませてももらった。心地よい木陰を提供してくれる。
私のシダレ、ちょっぴり不気味でかわいいシダレ。
なんでそんなに枝を垂らすんだい。
他の木みたいに上を向いて生きていかないのはどんな生存戦略なんだい。
いつも静かに話しかけている。
そして、シダレをながめぼーっとしては、つまらぬことを考えている。
私の育った片田舎には、巨大なたいまつを燃やして一年の息災を願う、というお祭りがある。
その時に開陳される絵やら何やらがあって、その中の一つに地獄の絵というものがあった。
それは絵巻物風になっていて、巨大な巻物に地獄の詳細が記されていたのだった。
大きなペンチのようなものを持った鬼が人間の舌を引き抜こうとしていたり、ぐつぐつにたぎった釜の中に人間を入れようとしている鬼がいたり、槍のようなものを持った鬼が人間をいたぶっていたり。
そんな絵が緻密にぎっしりと描かれていた。
「悪いことしたら、地獄に行ってこんな目に遭うんだからね。いい子にしなきゃね。」
そう言って聞かせる親もおり、その絵を見せられた子供の中には、あまりの怖さに泣き出してしまうものもいた。
たしかに、大迫力である。
地獄って、こんな所なんだ……
外では大きな松明がパチパチと音を立てて爆ぜ、人々の掛け声と共に燃えている。
暗がりの中で炎によって照らされる、人の顔の言い得ぬ不穏な表情。
熱気とざわめきが合わさって、そこは図らずも地獄の入り口のように感じられた。
地獄の詳細イメージが植え付けられ、地獄の原体験となった出来事である。
でもその時、幼い私は直感した。
地獄に行くから、悪いことしちゃいけないんだろうか。悪いことをする事は悪いから悪いのではないか。じゃなければ、地獄に行かなければ悪いことをしてもいいのか。そんな教えで人の行動を条件づけるなんて、何か、絶対に違うだろう。
今思えば、可愛げのない子供である。
素直に物を捉える性質を持った人を、私は今も羨ましく思う。
地獄に行きたくないから悪い事をしません。
それでよい。
けれど、善と悪が、なにか相対的な意味であるはずはないだろう、と地獄を引き合いに出す大人を頑なにみとめたくない強情さがあった。
「じゃあ悪いことをするとなぜ地獄に行くの?」
そう問うてみたくなった。
さすがにこういう風に当時言語化できたわけではないが、子供心にこの親は詭弁を言っている、と感じたことは事実である。
屁理屈を言うな!と叱り飛ばされてもしょうがないとも思うのだけど、私にとって善悪の問題はいくつになっても心惹かれるものである事は間違いない。
ひとつ、考えてもみてください。
善と悪、なぜ人はこれを判断できるのか。
どうして人を殺す事は悪で、生かす事は善なのか。
なるほど、時代によっては人殺しが正義だったこともありますね。
人殺し=良いことだ。戦争な時なんて、敵を倒してなんぼ!そう信じられていた事もあるでしょう。
だけど、人殺しが「善」だと言うときのその「善」の意味、これは全く変わっていない。良いことの意味ですね。
善の指す行為の対象が変われども、善それ自体は変わっていない。悪も同じ。
たとえば何か悪いことをしたとき。
うーんそうですね、嘘をついてズル休みをした時を思い返してみます。
何とも言えぬ不快感、罪悪感。
なんだか良くないことをしてしまったな、というもんやりとした気持ち。
嘘をつく事は良いことです!と幼少期から刷り込まれていたとしても、欺くというその行為に悪の成分が含まれていることに、何故だか私たちは敏感です。でなければ、欺く、嘘をつく、という「裏」の行動を「敢えて」取るということはないからです。正々堂々やるでしょう、本当に良い事なのであれば。
嘘をつくことが、何か本当のことを隠すことである限り、後ろめたい気持ちを呼び起こす。
やっぱりどこかでそれが居心地悪く、なんとなく良くない事を直感している。
こう考えると、なぜか、善悪を教えられるまでもなく私たちはあらかじめ知っているようだ、と感じるわけです。
ということは、善悪は、外ではなくて、教えられる物でもなくて、あくまで内側、私たちの中にある…のでは!?
じゃあ、いつから私の中に善悪はあるのだろうか。
気づいたときにはもうあった。
じゃあ生まれる前か?てことは創世より前ですか?
と、なるわけです。
これは考え始めると本当に不思議なことです。
善悪と人間、どちらが先に在ったのだろう。
行為が先か、存在が先か。はたまた言語が先んじたのか?
この超絶不可思議を、旧約聖書ではヘビに唆されたアダムとイヴが、神に背いて禁断の果実を食べて原罪を負ったという風に表現しているけれど、このニワトリとタマゴのような、メビウスの輪のような、よくわからない構造を苦し紛れながらも見事に物語に落とし込んだ形なのかなと今は解釈しています。
考えても詮ないことを…と思う人もたくさんいるでしょうね。全くもってその通りだ。
これは一種の残念な癖なのでしょう。
哲学者の木田元も言っていた。
哲学というものは、考えなくてもいい事をどうしようもなく考えてしまう、ある意味不幸な人たちだと。
昔からこういう天邪鬼のような気質があったようで、家族からは「山川人」と揶揄されていた。
みんなが山に行こう、というと川に行きたい、と言い、川に行こうと言うと、山に行きたいと主張する、めんどくさいやつの意です。
別に逆張りしたい訳じゃないんだけど、なんだか引っかかるセンサーが周りと噛み合わない。
そんな風に感じる時代もあったり無かったりしたけども、自分と同じようなことに興味のある人たち=哲学科に進学したところ、類は友を呼ぶで大変面白かったので、やはりそういうもんだなと今は思います。
善悪は自分の中にあると思えば、なんだか勇気が湧いてきます。
巷には色んな言説が溢れてますし、色んな主義主張も盛んですけれど、一度この不思議さに思いを馳せてみると、色んな人の正義が何を指しているのか、ちょっとは考えられるような気がする。
タイムマシンが出来たら会いに行って、聞いてみたいことが山ほどあるんだよな。
過去がどこにあるのかわからんけど。
あれ、過去と未来ってどこにあるんだ?
時間って過ぎるっていうけど、何に対して過ぎ去ってんの?
なんて、藁をまとって風に揺れるシダレを見ていると、なぜだかそんな事をとりとめもなく、ぷつりぷつりと考えてしまう。
どうやら、枝垂れ柳の放つあの衣擦れのような葉音、あれが物思いにふけってしまうトリガーになるようです。
みなさんもお気にの枝垂れ柳のふもとで、葉音に耳を澄ませて一息入れてみてはいかがでしょうか。
意外と心地よいですよ。
米は力だ!
あっという間に1月も中旬。
またご無沙汰してしまいました。
そして、2度目の緊急事態宣言が発出されてしまいましたね。
近頃はひきずっていた腰痛が悪化し、こりゃたまらんと年明け早々病院に駆け込んだところなんと。
おまけにコロナ感染症濃厚接触者の濃厚接触者という形で、問答無用のステイホーム強化期間に突入しています。
しばらくの間、仕事もいけない、体動かすのもしんどい、何か家でダラダラしながらできることってないかな・・・と思っていたところ、このゲームに出会いました。
天穂のサクナヒメです。
戦国時代を舞台とした、稲作RPGです。
ゲーマーを悉く米沼に落とすと聞く。
はい。お察しの通り、見事に沼に落ちてしまいました。
もう私もいい歳。
ゲーマーを自負していたものの、もうなかなかゲームにハマりきることができなくなって参りました。
世の中には面白いゲームがいっぱいあるんですよ。
やりたいゲームもたくさんあります。
実際買って、めっちゃ面白い!!!!ってなる事もよくあります。
けど、続かないんですよね。
ひとつのゲームをクリアする体力と集中力、そして何よりも記憶力が足りない。
社会人ともなると、ゲームに充てられる時間は休日や平日の夜の少しの時間だけ。
少し間が開くと、再開時に何からプレイしたらいいのか忘れてしまっているのです。
これは特にRPGや、私が愛してやまない牧場物語に代表される、拡大再生産型シミュレーションゲームにおいて致命的です。
そして、挽回がきかないミス(長くやればきくんでしょうけど)を犯してやる気をなくす。
もしくは、そのままゲームの存在が記憶のかなたへ飛んで行く。
頭がわるい上に飽きっぽいのでしょう。
こういった調子で、ひとつのゲームをクリアすることが大変困難になっています。
そんな私が、今作を買って6日でもうクリア目前。
プレイ時間も30時間越え。独りぼっちの三連休、すべて稲作に費やしました。
一言いわせてください。
米は力だ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
春。
水を張った田んぼというものはなぜこうも美しいのだろう。
懐かしい鳩やとんびの鳴き声。
蛙や田螺も顔をだし、春の喜びに生命力あふれる田園。
夏。
青々とした匂いが鼻腔の奥に広がるような、太陽の下の稲。
少し目を離すとすっかり伸長し、田んぼに賑やかさが増す。
水を抜いて、稲を休ませる。さぁ、実りまであと一歩。
秋。
風にたなびく黄金色の絨毯。
実るほど頭を垂れる稲穂かな。
黄昏時の稲穂程、美しいものもそうないでしょう。
心を込めて世話した新米を囲炉裏を囲んでみなで食べるとき、大和人としての原体験を思い出す。
冬。
すっかり雪景色。
生き物の気配が消えるが、みな来る春に向け力を蓄えている。
だからこそ春の訪れがよりいっそう待ち遠しい。
さぁ来年もより豊かに過ごせるように、寒さに耐えて田起こしだ。
なぜだかポエムが書きたくなってしまいました。
いやーーーーーー、本当に面白い…
一説によると、農林水産省HPのQ&Aが攻略に役立つそうです。
私は自力でよい米を作りたくて攻略情報を一切見ずにやってきました。
でも、いもち病に毎年悩まされている。
薬をあげても治らない。
発生させないようあらゆる手段をとってもいもち病が発生しやがる!!!!!!!
何がいけませんか?
害虫も雑草もかなり気を付けています。
気温も低すぎず高すぎないよう、雨乞いや日照り乞いの祈祷をささげ、水量を整えるため狩りにもろくに行かずに田んぼに張り付いて世話をしています。
なのに。なのに……
農林水産省に凸する日も近いでしょう。
子供のころから牧場物語などの農業・酪農シミュレーションゲームが好きでした。
これらのゲームを通して思うことは、実際の農家の方のすごさです。
現実ではゲームのように、こうすれば虫がつかない、病気にならない、ということは、当たり前ですがないんですよね。
今日も鳥インフルエンザで何十万羽も殺処分されているニュースを見ました。
ひとつの病気で、全滅する。
丹念に育てた命が、実ることなく失われる。
その厳しい現実と、正面から向き合って生きていらっしゃるのが農家という人々なのでしょう。
宮沢賢治は農民を美しいといった。
間違いなくこの世界の真理のひとつだと思います。
飢えることなく美味しいものをお腹いっぱい食べたい。大事な人々に食べさせたい。
人間の根源的な営みが、農業には詰まっている。
そしてまた、このゲームのキャラクターがとても良いのです。
主人公であるサクナヒメは豊穣神と武神の子であり、文字通り神である。
ひょんなことから、怠惰で傍若無人なサクナヒメは神の都を追い出され、人間達との暮らしが始まるのですがその人間達もまたキャラが濃い。
教養はあるが武芸も野良仕事もまるでできない無能な落ち武者の田右衛門。
カタコトを話す異教の宣教師である女ミルテ。
それに加え、訛りが強すぎてもはや何を言っているのか全然わからない捨て子3人。
このメンバーで生活の糧を得なければなりません。
もちろんサクナヒメ以外の戦力は期待できないため、人間たち5名を飢えさせないようサクナが奮闘するほかない。
いらだつサクナ。時には衝突しながらも、奇妙な絆が育まれていくーーー・・・
この、異教の宣教師。
これがこのゲームのみそだと思いますね。
作品にとんでもない奥行きを出すことに一役買っている。
天穂のサクナヒメが普通の里山箱庭ゲーにならなかったのは、こういった世界観をぶっ壊す「異物」とも思われる要素を入れているからだと思われます。
というのも、みんなで囲炉裏を囲み夕餉を取ることが日課なのですが、そこで交わされる会話がかなり興味深い。
思えば、日本という国は宗教的な思想がそこまで統一されてないし、自分は無宗教かな~みたいな感じで生きている人も多いと思います。
お葬式ではなんとなく見様見真似でお焼香をあげてみるけど、年が明ければ神社に初詣に行くし、お米一粒にも神様が宿ってるんだからお残しは許しまへんで!と教わる。
尻は左手で拭いているし、急な下痢の時は神様助けてくださいとすぐ祈る。
あ、私だけですか。
神も仏もいっしょくた。
サクナはいわゆる神道の神さまであると思われますが、一神教の宣教師であるミルテからは「あなたは神ではない、天使だ。GODは唯一神であり創造主である。」というようなことを言われ激高したりもします。
八百万の神々と、一神教宣教師と、寺で仏教を学べども戦で心がすさんだ捨て子達。その教養でこの混沌を整理する田右衛門たちの織り成す会話は、現代日本における宗教観についてのメタファーなのでは、と思わず考えさせられます。
格差を生んだ源流をたどると、それは稲作だったかもしれないとも言われている。
人々が「蓄える」という概念を持ったことで、有力豪族が台頭したという歴史が日本にはある。
強き者が蓄え、弱き者が飢える。
ちなみに稲作が伝わる前の縄文時代は、争いによる死亡率がとても低かったというデータを何かの文献で読んだことがあります。死因の大半は病気・けが、だったそうです。
お米は日本人に決定的な影響を与えたのかもしれませんね。
なんせ米は力なんで。
それにしても、おいしい米が食べたい。
夕餉の献立を考えていると、どうにもこうにも米が食べたくなるゲームなんです。
みんなと夕餉を囲む演出がにくい。
きちんと献立通りの食べ物が並ぶのだ。
今日はウナギが取れたぞ、米も大盤振る舞いじゃ!
という日もあれば、
冬で食材あんまり取れない・・・稗、粟の増水だけで我慢してくれ・・・
などひもじい思いをさせたこともある。
豪華な食卓のみんなの笑顔が恋しい。明日もわたし頑張るから!
という気持ちにさせられます。
そして、自分自身もうまし糧をたらふく食らいたい。
無尽蔵の欲望がむくむく沸き起こります。
そこで、自称米マスターの姉に美味しい米について聞いてみました。
姉はかなりの料理好き、料理上手である。
米の浸し方から土鍋炊きに至るまで、熱い解説を受けた。
そんな姉に、
「その米を食べてしまうと、美味しすぎて他の米を食べれなくなる。その覚悟があるなら・・・絶対に後悔しない。」
とまで言わしめた米がある。
なんと・・・!
これはゲーム内ストーリーで出てきた、わざと依存度を高めた凶悪米が出回るという米騒動そのものではないか・・・!
すぐにぽちりました。
レビュー含めてまた改めて書こうと思います。
生きるために狩猟・採集・稲作をしていたかつての人々の暮らし。
そこに想いを馳せることができる、傑作ゲームをステイホームのお供にいかがでしょう。
お米に感謝、命に感謝、そしてお米をたらふく食べたくなること間違いなしです。
SAKANAQUARIUM 光 ONLINEについての所感
2020年8月。
暑さがすごいですね。皆さまはお元気ですか?
外回りの仕事をしている私はマスクと猛暑のダブルパンチで、それはもう熾烈を極めています、生きることが。強すぎる日差しが頭痛を誘発するのか、直射日光を短時間でも浴びると頭がかち割れそうな痛みに襲われ日常生活に支障を来してます。もう外出時はこの酷暑の中マスク、サングラス、帽子、長そで、みたいな重装備で外に出ざるをえない。変質者かな?ってなるけどしょうがない、生きるためです。
コロナで夏のイベントも軒並み中止になってしまってますよね。花火大会も、フェスも、キャンプも海も、ぜーんぶお預け。残念ですね。
私も毎年夏には実家に帰省していたのですが今年はそうもいかず、自宅で延々と何かを見たり読んだりとコンテンツ消費型の生活を送っています。
もっぱら消費専門で、自らは何も生み出すことのない、いかにも煮こごった資本主義によって生み出された創造を忘れた怠惰な人間的生活をしている自分に少しだけ罪悪感があります。嘘です、この生活も嫌いじゃない、一生コンテンツの消費だけして生きていたい。
そんな例年に比べると楽しみの少ない夏ですが、ひとつだけ楽しみなことがありました。サカナクションのオンラインライブ、「SAKANAQUARIUM 光 ONLINE」です。
サカナクション、みなさんはお好きですか?
私は数年前、「バッハの旋律を夜に聞いたせいです」という楽曲を聞いてしびれました。この曲なんね!!!!!!?!????!?と、驚きたまげてすぐにググって、すでに大活躍のサカナクションに出会いました。
そこからサカナクションをディグりはじめ、いろんな楽曲を聞いていく内にサカナクション特有の不思議な音に惹き込まれ、あっという間に好きになってしまったのでした。
ダンスミュージック×ロック、フォーク、テクノ等の不思議な掛け合わせがとても耳に心地よく、また、歌詞も嫌味なくつるりとした質感を持ちながらもぎょっとするほどウェットでもあり、ミクロでもマクロでもあり、とにかくえも言われぬ不思議感。不可思議サウンドと調和された美しくもどこか引っかかる日本語。そんな唯一無二の雰囲気を醸成しているのです。
好き。
周りにも多いんですよね、サカナクション好きっていう人。
個人的にはすごく幅広い層に人気な印象です。
というのも、私は学生時代クラシックピアノサークル的なゆるいものに参加していたのですが、そこでできた仲間とは今でも仲良くしてもらっており、たまに集まると音楽談義に花が咲くこともしばしばです。ただまぁ個性的なメンツなため音楽の嗜好はバラバラで誰もかぶってない。(と思う)
コンサートで弾く曲も、バロック音楽からゲーム音楽まで、幅広いジャンルの中でそれぞれが縄張りを持っていた。
このメンバーで行くカラオケはレパートリーのレンジが広すぎてさばききれん。
そしてうまくもある。
そんな中でも、サカナクションは「いいよね」と支持を集める極めて珍しい存在である。私たちの最大公約数的なポジションかもしれない。
いろんな人に刺さる要素を持ったバンドなのだろうと感じています。
あとね、バンドのフロントマンである山口一郎氏がね、傑物なんですよね。
コロナ禍でいろんなアーティストがインスタライブするようになりましたが、山口氏のライブがいつも秀逸なんです。
内容としては音楽のパフォーマンスというよりかはお題を決めて、深夜対談的なノリでランダムにリスナーとトークすることが多いのですが、そこで繰り広げられるリスナーとのトークは仕込んでるんじゃ?とすら感じる鋭いオチがあったりして、第七世代のネタ見てるより面白いぐらいです。
先日のインスタライブでは、地球に来る前の記憶を思い出してしまった(?)サイキック体験をしたリスナーと繋がり、特殊な能力ゆえの生きづらさを抱えたマイノリティの苦しみに対して、人のために生きられると楽になる、感謝をしながら今を生きることで結果として自らも生きやすくなる、という涙の結論をリスナーと共に導き出していた。
ほかにもコンテンツ制作の裏話や、あれは赤字、あれは黒字、等の金銭の話などを明け透けに話すこともあり、トップアーティストにも関わらず常にファンや視聴者との距離を大事に誠実に音楽に向き合う姿勢を垣間見れる。
そんな山口氏が、2月のコロナショック以降中止になったツアーぶりにライブをするというのです、約半年ぶり!
現在の音楽業界の落ち込みっぷり、いつ生活が立ち行かなくなるかという窮状も山口氏はライブで言及していました。
本当、どの業界も計り知れない影響を受けているとは思うんですけど、今回エンタメの受けた打撃はすさまじいと思います。
普段その恩恵を享受している身としては、心苦しいものがあります。
音楽を筆頭にる、エンタメに幾度となく助けられてきたにも関わらず、今回のコロナ禍では生きるために必要不可欠なものではないと、切って捨ててしまわれてしまったに等しい扱いがありました。
芸術や音楽は、「不要不急」だという論調、ありましたよね。
でも、果たしてそうだろうか。
音楽や芸術が廃れた世界で、自分は幸せに生きて行けるかしら・・・
そのようなことを考えてしまいました。なんせ、自分NoMusicNoLifeなんで。
とまぁ、好きなアーティストが引退したらこっちとしても困るじゃないですか。
だから、なんとか応援できたらいいな、と思っているわけです。
そしたらオンラインライブですよ。
1公演、4,000円と強気な価格設定。最初は高!!!と思いました。
だって、時代の寵児である髭男ですら2,200円ですよ?約2倍ですよ。
4,000円。自信あるのかな…
家で無料のyoutube見るのと何が違うのかな。
とか思ってました。
そしたら、山口氏、こんな感じのことを言ってたんです。
我々は、こんなご時世だからと、ファンに甘えてこんな価格にしたんじゃない。
ファンに助けてほしくて、ライブするんじゃない。
オンラインライブだからと妥協はしない。
4,000円払って見る価値のあるものを創る。
だから安心してほしい。最高の音楽体験を約束する、と。
オンラインでしかできない表現、新しい音楽へのチャレンジ。
ライブだけれども、イヤホン、ヘッドホン推奨。
3Dサウンドシステムを使った、新しい音楽体験。
3Dサウンドシステムとやらがどんなものなのかも、事前にテスト配信があった。
イヤホンで聞くと、音が360度、そして真上や真下から聞こえる摩訶不思議な聞こえ方するんですよ。イヤホンで聞いてるのに、あ、上から聞こえる。後ろから鳴ってる。下にベースがいて真ん中にギターがいる。その上にボーカルだ、みたいな感覚があるんですよ!
そりゃ、ヘッドホンやイヤホン推奨になるわけですね。
私はSONYのイヤホンのアレあるんで、もうアレでしたよ。
もう、チケットぽちですよ。
しかも、サカナクションはこのコロナショックにより収入が激減した音楽関係者へのドネーションを目的としたBru-rayBOXも発売したり、完全に業界復興のために立ち上がりし勇者なわけですよ。
モブキャラでもいいからいつか伝説になるその冒険、参加したいじゃないですか。
自分も楽しみながら、支援することができる。見事なwin-winいえーい
そして当日。
外出先から急いで帰ってきて、まずは50インチの大画面テレビでその雄姿を拝むことにしました。
もうね。
言語化が難しいです。
本当に、オンラインライブというまだ未開拓のこのジャンルで、ここまでの完成度で持ってくるものなのかと、若干引きましたね。
正直、MVを見てるような、そんな感覚を覚えました。
MVとの融合というコンセプトイメージもあったみたいなので、それは成功してるなと思いました。
特に、「ミュージック」という楽曲の演出が神がかりすぎて鳥肌モノでした。
そこにバーチャルとリアルの融合みたいな演出があって、ほんとこれこそ2,5次元なんじゃないか?って感じでしたね。目の前で演奏されてたらその感覚は味わえなかったと思う。MCもほぼ無く、圧倒的な演出力で、通常のライブとはまた違う世界観が出来ててライブそのものがひとつの作品になってました。
そして普通に演奏のクオリティがやばい。
これ生演奏ですか?今弾いてます?って感じでした。(弾いてる)
アーカイブはイヤホンで楽しみました。
すごいわ、としか感想が出てこない。
これは確かに新しい音楽の形でした。
個人的には本当に良い体験をさせてもらいました。
音楽の歴史の1ページに立ち会えた気分さえあります。
オンラインライブってどうなの?意味あるの?
っていう声もあると思います。
でもそれはその公演によるものかもしれません。
単純に、画面の向こうで生演奏してるだけでは、その価値を感じられないのも事実かもしれません。
どのクオリティでオンラインライブをやるのか。
サカナクションが今回のライブでハードル上げてしまったのは間違いないと思われます。
ものすごく予算かけたらしいし。
4万人動員できなければ赤字だったそうです。(結果6万人)
先日のサザンの無観客ライブ配信3,600円が18万枚売れるという破格の利益を出したことを考えると、大健闘ではないでしょうか。
最近、今度行ってみようと話していた飲食店がことごとく潰れていることに気づきました。老舗のフレンチも、人気の鉄板焼きも、素敵な純喫茶も、チェーンの居酒屋も。
いつか行こうなんて呑気に構えていたことを後悔した。
今度行こうの今度が、いつになるかわからない中で、お店を開けてお客さんを待っていることができるお店なんて、ないのだ。
いつも素晴らしい音楽を生み出してくれるミュージシャンや音楽家たちが、生活苦に音楽をやめたりしなくて済むように、いちオーディエンスの自分は細々と応援するのみであります。
常に新しい音楽の可能性を示唆してきたサカナクション。
今後もできる限り応援していきたい。
感動をありがとうございました。
山田になりたい
私は山田になりたい。
山田くんをご存知ですか?
笑点の方じゃないです。
ちびまる子ちゃんの方です。
あの、薄ら笑いを常に浮かべながら「〜だじょ」という馬鹿丸出しの話し方をする、彼です。
唐突ですが、私は宮沢賢治が鬼好きです。
タイムマシンがあったら会いに行きたい人ランキングの上位3位に入る。
ちなみにトップ3は順不同で、宮沢賢治、ベートーヴェン、シューベルトです。
あとはバッハとモーツァルトと高畑勲も捨てがたい。ゴッホとソクラテス、ピタゴラスなんかも会ってみたい。
おいソクラテス、ちょっとそこ座りなさい。
何から何まですべてを否定して。
お前みたいなやつがいると仕事が何も前に進まないんだわ。否定するなら代案だしなさい。
そしてピタゴラス。
宇宙の調和を表すハルモニアから音階を発明したんだって?天才すぎかよ。ピタゴラス教団入れてもらっていいですか?
くらいの事は言ってみたい。
宮沢賢治にはもし会いに行けたらプロポーズする気でいます。
まあ禁欲主義の賢治には即振られると思いますが。
賢治、当時アピってきた女子を撒くために、ほっかむりを被ってハンセン病のふりをして追い返したという逸話が残っています。
こじらせ方はんぱない。だがそこが良いのです。
賢治が好きすぎる話と、賢治のこじらせエピソードは熱量やばくなるのでまた別で書きます。
で、賢治と山田がどうしたって話なんですが。
山田って、ただヘラヘラ笑って、ちょっと間抜けなことしてしまって、クラスのみんなをドン引きさせつつも笑わせて、いや笑われてるんだけど、何がなんだかわかんないけどみんなが笑ってて幸せ、みたいな奴じゃないですか。
そんな山田が私には眩しく映るのです。
それはなぜかというと。
これまた急ですが賢治の作品に、超有名な「雨ニモマケズ」がありますね。
そちらを全文引用します。(出典 青空文庫)
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ 陰ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
です。
読むたびに、こみ上げるものがある。
私はイライラしたり思わずバチボコにブチ切れてしまいそうなとき、一旦トイレに行って雨ニモマケズを暗唱するということで平静を取り戻しています。
特に、
欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている
の部分を繰り返します。
かなり冷静になれます。
おすすめライフハックです。
と、まあ日々穏やかじゃない気持ちを抱えている我々現代人は、このようないじましい努力によりこの殺伐とした現代社会を辛うじてサバイブできています。え、私だけ?
でも、山田は違う。
山田は、自分が周りにどう思われているかとか、自分の存在価値とか、そんな事を考えたりはしない。
楽しい時は笑い、悲しい時は泣き、ただ「今」を生きているのです。
それは、未来への不安や過去への後悔などとは無縁であることを意味し、今この一瞬をいかに懸命に生きるかという禅のエッセンスをも内包しています。
仮に、まる子の所属する3年4組のみんなにデクノボーと思われていたとしても、彼にはそんなことを認識することの意味すら持たない。
褒められもせず、苦にもされず。
山田はまさに、賢治が晩年に病床で手帳に書きつけた、この雨ニモマケズの目指す姿を体現しているのです。
そうなんです。それでいいはずなんです。
人の不幸は共に悲しみ、人の幸せも、共に祝う。
自分がどうだ、とか、あの人はどうだ、とか、そんな事は気にしなくていいんです。
未来も過去も、囚われるくらいなら考えなくていいのです。今に集中して生きていれば、自ずと不安はうまれないのです。
貯金が0でも問題ないはずです。
ですよね?そうだよと言ってください。
でも、そんな簡単な事が、できないのです。
だからこそ私は山田に強い憧れを抱く。
山田を見て、なんて美しいのだと、お前はいまを生きているかと、痛烈に問い質されているような居心地の悪さすら感じる。
あの薄ら笑いに、恐れおののく。
決して私が到達することのない高みで、朗らかに生きる山田が、眩しくて直視できないのです。
私は山田に、賢治が目指した無私の美しさを見ている。
だから山田に私はなりたい。
午前4時のデカルトと、世界内存在である私を存在たらしめたもの ―ゲルニカと虫さされ―
お久しぶりです。
すっかり世の中は大変なことになっていますね。
ヒゲダンのライブ、当選しましたが延期になりました。
発狂しています。
それでも日々、存在(ウーシア)をめぐる巨人の戦い(ギガントマキア)に身を投じている皆様はお変わりなくお過ごしでしょうか。
あ、すみません発狂しています。
コロナ禍で、急速な社会の変化が起きましたね。
私はというと、在宅勤務が取り入れられ、おまけに一時帰休というよくわからない制度により仕事が一部休業になっていました。
休業日は日がな1日ごろごろし、気が向けばファイナルファンタジー7リメイクとファイナルファンタジー9を交互にプレイし、軽めに星を救った後、15時間睡眠をとるなどして過ごしていました。良き日々。
でも翌日は久々の出社だというのに、過眠のせいで目が冴えて、眠れずに困っていたそんな時。
携帯電話が突如鳴り出しました。
見ると、大学時代のクラスメイトからの着信。
卒業して8年が経ちますが、その間連絡を取ったのは1,2回あるかないか。
先般、コロナに乗じたネットワークビジネスの記事を読んで警戒レベルを爆上げしていた私に死角はありません。
本能が告げる。
「これは、マルチ勧誘。」
が、マルチだったとしてもそれはそれで面白くね?????
2コール目には電話を取っていた。
自分のこういう所、よくないと思います。
「よぉ○○(私)!暇だろ?Zoom送るから来いよ。」
「久しぶり。OK。」
お互い何も聞かず、言わず。
ただ二つ返事でリモート飲み会の誘いに乗ってみました。
さあ来るなら来い。不安をあおりまくるが良い。
普通に、暇を持て余した「元哲学科」の集まりでした。
学友、ごめん。
申し遅れましたが、私は哲学科出身です。
皆様お察しの通り、哲学科は基本、おかしな人しかいません。
学生時代も思い返せば、キャンパスで談話しているだけで「社会不適合者の集まり」と罵られることはあれど、哲学科?キラキラ★合コンしよ!などと扱われたことはありません。
学科の友人たちが数人でルームシェアしていた部屋は、哲学科が集う吹き溜まりと化し、酒、麻雀、たばこ、チンチロリン、の中にハイデガーやウィトゲンシュタイン、孔子といった書物が並ぶデカダンスな空間で、堕落したもの程拠り所となり、さらに荒廃していくのです。かくいう私も利用者。
夢見る高校生がオープンキャンパスに来た際も、我々哲学科と高校生、相まみえた際のダメージを誰よりも深く理解し、希望に胸を高鳴らせた若者の目に触れることが決してないよう、まるで最初から存在しないかのように息をひそめて過ごしていました。
でも確かすぎる異質な雰囲気を隠すこともできず、存在するのかしないのか、それはあなたの判断に委ねます。そんなシュレディンガーみのある学科でした。
そんな苦楽を共にした(?)友人たちと昔話にも花が咲き、学生時代を思い出したのがこの記事を書いたきっかけです。ここまで、前置き。長い。
では本題へ。
みなさんは、今、存在してますか?
こいつめんどくさいなと思いましたね、私も思います。
でも主に哲学は、超絶ざっくり誤解を恐れずに言うと、「存在するって、つまりどういうことだってばよ?」というようなことをソクラテスやプラトンといった古代ギリシアの時代からもうずっとやってる学問なんですね。あほか。
ちなみに最初に言っておきます。
私は4年間哲学を学んで、何一つわかりませんでした。
いや、逆にもはやひとつの真理を得たのかもしれませんね。
この世のことは何一つとしてわからない。
すみません冗談です。
単純にあたまが悪いのだと思います。
今この記事を書いていて、4年間という月日と数百万の学費を投じて学んだことが、「この世のことは何一つとしてわからない」という事だなんて、絶望しています。
大学2年生の緑萌ゆる初夏の頃、「我思う、ゆえに我あり」で有名なデカルトについて学ぶ時期があったんですね。
「私はなんやかんや考える、ってことは考える自分がある、つまり私は存在する」って感じで英語やドイツ語のテキストを訳しながらへいこらやっていたわけです。
毎日新しい細胞が作られて、細胞単位でいえば私は毎日新しくなっている。
その私は、昨日の私と同じって果たしていえるのか?
文明の発達は目覚ましいが、進歩したテクノロジーによって今後私の記憶をすべて外部に移すことができたなら。
私の記憶をもった「それ」は私と何が違うのか?
「私」を構成するものって、何なのか?物質?記憶?感情?
え、私ってなんなん?私が自信もって「私!」て思ってる私は、なんなん?????
私以外、私じゃないの!!!!!!!!!!!!!!!
じゃあ私っていったいぜんたい、なに・・・?
ってなり始めましたか?
なってませんか、それでいいと思います。
外国語がまずわからんし、言ってる意味もそもそもわからん。
頑張って考えてもみてもわからん。訳を読んでもわけがわからん!
わからんづくし、すっからけっち~~~~~
な日々で、勉強は早々に諦め、バイトに打ち込むのでした。
当時私は居酒屋でバイトをしており、その日は珍しくお店が忙しく帰りそびれて終電を無くしてしまったわけで、近くのマクドナルドで始発を待っていました。
すると、深夜帯のマックのまばらな客の中に、ガリガリと勉強している見覚えのある人がいる。
大学の先輩でした。
その先輩は、哲学科ではないにも関わらず哲学研究室に出入りしており、哲学の授業にも潜り、独学で哲学を勉強しているという変わった人で、共通の知人を介し自然と仲良くなりました。
細身で長身。スマートな出で立ちに加え、いつもアバンギャルドな服を身にまとっており、セーラー服とベレー帽が彼のトレードマーク。
スカートからすらりと伸びる真っ直ぐで長い足は、まるで雪下大根のよう。
パッと見は前衛的なブランドのモデルさんかしら、と思えなくもないルックスなのですが、奇天烈なのは見た目だけではありません。
ある日学内に変質者が出るということで、学生に注意喚起のちらしが配られたのですが、それはその先輩がなぜか服を着ずにキャンパスを疾走していた所を目撃者が通報したためでした。
他にも不審な行動は多い傾向にあり、早朝のキャンパスでたばこの吸殻を集めている姿もよく見受けられました。
先輩の部屋に行った事もありますが、ここは現代の黒魔術研究所か何かか?と錯覚するような得体の知れない雰囲気を醸しており、散乱しているカップ麺の空き容器の中には、どうやって精製されたのか想像もつかないどす黒い何かが入っていたりしました。
部屋に到着早々家主である先輩は、「僕は寝ますね。」と言ってひとりロフトベッドで眠りだす、という自由奔放な人柄でした。
その日は私ともう1人の連れであるHさんと先輩の3人で遊んでいたため、家主就寝により残された私たちは、買ってきた酒を飲みながら朝を待つことにしました。
深夜、安い甲類焼酎を薄く割ったまずい酒を飲みながら、ぽつりぽつりと将来のことなどを話しているうちに、「学校の先生になりたいんだ。」「純粋な子供の時期に、俺が社会を教えてあげたいんだ。」と夜更けのテンションも相まって、夢を語るHさん。
ちなみにこのHさんは、学内でも名前ではなく「イケメンの人」と呼ばれるくらい正統派イケメンで顔面偏差値がバカ高かった。そんなHさんが、夢を語り、そして「髪の毛きれいだね。」と言って私の髪の毛束を取ったではないか。
イケメン!!僥倖〜〜〜〜〜!!!
え、フラグ?フラグ???
わ、わたしはイケメンなだけじゃふりむいてあげないんだからねっ・・・デュワ
などと下衆な思いが脳内を駆け巡っているうちに、Hさんはおもむろにハサミを取り出して、私の髪をいきなりシャキリと切った。
「あ、このハサミよく切れる……」
そう言い放ち、切った毛を見ながらハサミをシャキシャキ鳴らすそのサイコパスっぷりに、こいつが学校の先生になったらたまったもんじゃねえな。と心から思った事を覚えています。
ちなみに夢を叶えて現在は学校の先生をやっているらしい。
そんなこんなで、変な人が極めて多い哲学科ですが、先輩に関してはその中でも際立つ存在感がありました。
年下にも常に敬語を用い、知を心から愛し、世界の真理をひたむきに追い求める狂気さえも孕んだ求道者たる振る舞いに、多くの者は畏敬の念を込めて、「ゲルニカ」と呼ぶのでした。
時を戻そう。
ゲルニカと深夜のマックであいさつを交わした後、しばらくはお互い勉強を続けたり本を読んだりして過ごしていたのですが、朝焼けも近くなってきたころ、せっかくだから近所の公園付近を散歩しようということになったのでした。
散歩の話題は、今受けている講義の話。
前述のとおり、私は授業がちんぷんかんぷんな状態でしたので、当時疑問に思っていたことなどをゲルニカに質問し、それに対して答えてもらうというような感じでたらたら歩いていました。
詳しい内容は覚えていない。
そこらへんの草を見て、「植物に記憶あるのか知らんけど、あれも存在してますよね。」とかそんなことを言っていたような記憶。
徹夜明けで疲れた体と頭には、少々重すぎる話題です。
それに加えて歩き回っているのだから、正直体力は限界を迎えていました。
ひとまず公園横のベンチで座って休むことにしましたが、ふとこんな考えがよぎり始めました。
このような状態だからこそたどり着ける境地があるかもしれない。
普段の頭の使い方では一向にわからないことでも、肉体のパフォーマンスが低下することによって得られる閃きもあるかもしれない。
しかも、今日はゲルニカがいる。つよい。
私は今日こそ、世界の真理の扉をひとつを、開く。
何故かそんな気持ちになってきて、足りないあたまを必死に絞って、
人類史上未だ答えの出ない問題に果敢に挑んでいました。
その時です。
「え、蚊に刺されていますね。え、すごく蚊にさされていますね。」
ゲルニカが唐突に言いました。2回言いました。
そうなのです。
初夏の公園通りにはやぶ蚊が大量発生しており、私は手足を刺されまくっていたのです。
こちとら世界の真理に到達するかもしれない大事なタイミング。
かゆみなんか気にしちゃおれんわ、とあちこちをボーリボーリとかきむしりながらもかゆみに対する意識を濁らせつつ、思考を巡らせていたのです。
でも、その一言、いや二言で、すべては無に帰すことになりました。
もう、かゆみを認識してしまうとかゆすぎてかゆすぎて、かくこと以外の何も考えられない。人類の期待を背負った大いなる挑戦は失敗しました。
それにしてもかゆすぎるだろ、なんでゲルニカは刺されてないんだよ。
理不尽なかゆみに怒りさえ感じていた私に、ゲルニカは
「蚊に刺されるって、○○(私)は存在してますね。」
と言いました。
意味はわかりません。
ただ、尋常じゃないかゆみを携えた私は、実際に今ここにいることは確かであり、蚊に刺されたので存在は肉体ベースってことでよくね?という理性を吹っ飛ばした極めて唯物的な実存を認識するという体験をしたのでした。
私はずっと、何を言っていますか?
久しぶりにリモート飲みで再会したゲルニカは、一段とパワーアップしていました。
現在ヨーロッパの大学で中世哲学を研究しているそうで、洋書とランタンが立ち並ぶアカデミックな部屋で、顔を覆うほどの髭を蓄えた姿で珈琲を飲む様はまるで世捨てびt、仙人のようでした。
今思っても暇だな、と思うそんな学生時代でしたが、実益に直結しないことをじっくりと考える時間があったことは有意義で贅沢なことだったのかもしれない、と今になって思うようになりました。
実利ばかり追っているうちに、聡くなったつもりで本当は貧しくなっているのかもしれない。私は鳴らします警鐘。知らんけど。
コロナで新しい生活様式、とか言ってますがまだまだ家にいる時間は長そうなので、この機会に「哲学」の本でも読んでみるのはいかがでしょうか。
何もわからないけど、ちょっとだけ面白いです。
「反哲学入門」木田元
ヒゲダン藤原さんの結婚報道によせて
やってもやっても降り積もるタスクをせっせとこなし、ようやく終わらせて疲れ果てて帰宅したその時、そのニュースは訪れた。
ヒゲダンのボーカル、藤原聡さんの結婚報道だ。
11/22 22:00。
私はヒゲダンニュースをプッシュ通知しているため、発表とともに即知った。
耳タコの鉄板ネタをドヤ顔で話す先輩の顔が脳裏に浮かぶ。
「人生には3つの坂があります。登り坂、下り坂、まさか、です……」
まさか、そんな。
つい先日、嵐の二宮和也さんの結婚報道があった。
私は特に嵐のファンというわけではないので、単純におめでたいなぁと思っていただけだったのだが、ファンの阿鼻叫喚っぷりたるや、凄まじいものがあった。ちょっと検索しただけでも、止めどなく生まれ出づる地獄にこっちまで呪われそうであった。
その言葉の暴力っぷりは、もはや正気の沙汰ではない。
きっと、大抵の人は普段は普通にいい人なんだろう。しかし受け入れられない現実に直面したことで攻撃的になり、メンタルの均衡を保とうとしている故の反応なのだろうが、正直醜い。
好きな人の幸せを素直に喜べる人間でありたい。
それでこそ世界は平和を歩んでいけると申せましょう?ニノファンはもっと喜んであげなさいな!
そう思っていた。
しかしそれと同時に、
もし、さとっちゃんが結婚したら、私はどんな気持ちになるのだろう、とも考えた。
ヒゲダンのメンバーも若いとはいえみな妙齢。
いつ結婚しても全くおかしくない。
うわ、もし今さとっちゃんが結婚したら1ヶ月はロスるな。
そう思ってた矢先でした。
「つらい」
いつのまにかつぶやいてました。
すみません。人間そんなもんです。
当事者になったらもう、そりゃだめでした。
ニノファンの皆様。偉そうなこと言ってすんませんした。
こりゃもう、明日の今頃にはわたしはきっと泣いてる、ですわ。今はまだ悲しいLove song…新しい歌歌えるまで、ですわい。ヒカルはこんな詩を16歳で書いてるんですね。さすがヒカルですよほんと…
ニノでシミュレーションしてたので、致命傷は避けられた。これが心構えなくドーンときたら、少し危なかったかもしれない。
人気絶頂のいま、結婚を決断するってすごくないですか。もう、全力で音楽で勝負してる感バシバシ出しますやん。さすがです。もっとファンになりました。これからきっと、もっとハートフルなラブソングや、日々の小さな幸せだとか、ケンカした翌日の朝食の歌とか、運動会に備えて良いカメラ買っちゃう歌とか、バージンロードをエスコートしてる心境とか、そんな歌も聞けるっちゅうことですよね。えぇ、とても楽しみです。
それにしても全く付き合える訳でもないのに、何故か喪失感があるんですけどなんなんですかね、この馬鹿げた気持ちは。逆に自分に引いてます。
でも、中学生ぶりくらいに芸能人の結婚で一喜一憂するこのフレッシュな心のリアクションを感じたので、こんな気持ちも思い出させてくれてありがとうです。
きっとこれからもグッドミュージックを作ってくれる事でしょう。それをありがたく享受するのみです。
いや本当におめでとうございます。
犬かキャットかで死ぬまで仲良くケンカして下さい!!!!